オーナーについて
石川県で生まれたあべみきさんが、サファリカレーショップのオーナーになるまでの軌跡を紹介します。
サファリカレーショップ店長
あべみき
石川県生まれ。1978年生まれ。学校法人東放学園専門学校 照明クリエイティブ科卒業、2020年サファリカレーショップをオープン。
- 座右の銘
- 楽しまずして何の人生ぞや。- by 吉川英治(作家)
- お店開業したきっかけ
- 赤坂のアフリカンレストランバーサファリのシェフ「ワンダさん」と出会い、インジェラを食べさせてもらったところ、「ウマイ!」うまい、これなら大丈夫と思い、お話も楽しいし、おもてなしもとても良いし、こんなお店が広がったらいいなぁと思ったから。
- メッセージ
- やればできる。
あべさんの年表
- 1997/03/19
学校法人東放学園専門学校 照明クリエイティブ科卒業
あべみきさんは、コンサートの照明家になりたくて東京に出てきました。
でも、本当のところは、歌手になりたかったのですが、当時の私は親や世間の目を気にして「照明家」という職業にしました。- 1998/03/20
コンサート照明の会社に就職
念願の照明家になりました。沢山のアーティストのライブで働きました。
でも、このころのあべみきさんは、めちゃめちゃ仕事が出来ませんでした。
びっくりするくらい、へっぽこりんなあべさんでした。遅刻はするし、ミスばっかりするし、部屋はきったないし
でも、役に立とうと一生懸命でした。しかし、上司がして欲しいことを理解すら出来ていない為、全く的を得ていませんでした。会社のお荷物でした。
もって生まれた個性のお陰様で、アーティストさんや他の会社の方からは優しくして頂きました。
会社の方には、めちゃめちゃキレられていました。でも、社長や面倒を見てくれていた先輩からは沢山愛情をもらいました。
本当に申し訳ないと思っております。で、専属のアーティストさんが引退の為、あべみきさんも解雇になりました。しょうがないです。
大泣きしました。でも、しょうがないと自分でもわかっていました。全く仕事が出来なかったからです。仕事以前の問題だってことです。
例えば、次の日、朝7時の飛行機に乗って広島に行かないといけないのに、前の日に友達と飲んで気づいたら飛行機が飛んでいたとか。
今思えば『食生活』が原因の一つだと思います。
コンビニ、お菓子、甘い飲み物が主です。糖分を分解するのに「タンパク質」が使われます。
そのタンパク質をしっかり食べていないと『自分の内臓や筋肉、ホルモン』などを使って、糖分を分解します。
すると、筋肉はつかない、体力はなくなる、内臓の機能は弱くなって、栄養が吸収出来ない。
ホルモンを作るたんぱく質、ビタミン、ミネラル不足で、自律神経や交換神経、ホルモンバランスがめちゃくちゃ
おまけに、飲酒で脳が委縮、喫煙、なんてこったです。- 2000/03/22
経理総務の補助の仕事に携わる
念願の照明さんを解雇になり、全く他の仕事を考えられなかったあべみきさんは、電話も出れないし事務仕事が出来なかったなぁと思いだし、事務の仕事に就きました。
「この数字とこの数字を足して、ここに出てくることって出来るんですか?」って言うほど、何にも知らない私に、プログラムとかサーバー管理の業務の方々に面白がられて、パソコン壊れてもいいからガンガン使いなさいと、いろいろ教えてもらいました。
壊れても直してくれるからと思い、パソコンをガンガン使い、ガンガンに使えるようになりました。とくにピポットテーブルを活用して必要な表を沢山作りました。
最初は何億の規模が合併して合併して、百億のを超える売上になり、部品1個何銭の物から経費を集計して、利益を計算していました。
合併合併で業務が追い付かず、一人で会社の為にと思い深夜まで残業してました。でも、しょっちゅう社長から生のバラちらしの出前が届くのです。
初めて給料以外の寸志っていうボーナスももらったり、給料にも家賃手当とかいろんな名目で多くいただきました。
合併前の会社の人たちは、みんな、あいつはここがすごい!こいつはこれをやらせたらめちゃめちゃ早い!とか、みんな尊敬しあっていました。
良い会社でした。。
また、経理を教えてくれた東京のお母さんは、とってもきれいでいつもニコニコ、冗談ばっかりおちゃめで、嫌なことも笑ってはね返す、でも、芯はピシッと通っていて言うことは言う、とっても素敵な方でした。東京のお母さんです。もう亡くなられたのですが、きっといつでも見て笑って応援して下さってると勝手に思っています。
22歳のあべみきさんは、東京のお母さんに、電話は1回なったらすぐに出る事、紙に丁寧に言う文言を書いてくれて、出来るようになりました。
この会社で、全く怒られた覚えはありません。失敗しても、大丈夫でしたし、失敗したことも覚えていません。でも、怒られなくとも、すごく成長させてもらえました。
46歳でもそこそこパソコンが出来るのは、この22歳の時に全く怒られないでガンガンにパソコンをいじらせてくれたからだと思います。本当に良かったです。
毎日朝、掃除をします。窓のサッシ、宿直室、事務所。そしてインスタントコーヒーを淹れます。今のスタッフにもコーヒーを淹れますが、この時教わったことです。 そして、毎日宿直室でお弁当を食べて、お昼寝して午後からまた仕事をするのですが、東京のお母さんはお弁当の作り方を教えて下さいました。
東京のお母さんは、合併した会社から来た経理の方が私にひどい言い方をしていたら、内線で「あべちゃんのこと、いじめないでくれる!!」って言って勢いよく電話を切りました。
そんなことをしてくれる人がいるから、がむしゃらにやれたのです。そして、気が付いたらめちゃめちゃ自分の力になっていたのです。
22歳の私は煙草をバシバシ吸いながら仕事をしていたのですが、そんな私をかっこいいと言い、「あべちゃんは、何でも出来る!!」って笑顔で言って下さいました。- 2004/03/26
やはりもう一度照明をやりたくてブルーノートで照明をやる
事務の仕事もだいぶできるようになり、合併で合併前の人は辞めていき、東京のお母さんも退職されました。そんな時にやはり!もんもんともう一度照明をやってみたいと思うようになり、友達が働いていたブルーノート東京で働く事になりました。
沢山の有名なアーティストの皆様の音楽にたずさわれて、大変幸せでした。
また、一流のホールスタッフの方の考え方や身のこなし方、接客の仕方なども自然と学びになっていました。ピシッと揃えると気持ちがいいとか、いくら焦っていても、お客様のペースに合わせてご案内するとか。
ここでは、なぜか、バーのチーフに「あべもビールサーバーの講習を受けろ」と言われ、ビールの美味しい淹れ方についてしっかり勉強させてもらいました。
がしかしです!なんと!私にはリズム感がなかったのです。いつも「あべみきーー!!ずれてるーーー!!」と、先輩から背中をリズムに合わせてトントンとされていました。
リズムマシーンを買って、たいこのバチでたたいてみたり、足踏みをしたり、いろいろしましたが、ちょっとよくなったぐらいです。
あと、色のセンスもあんまりでした。でも、たまーーーーにバチーーンとうまくいくときもありました!オマールソーサ、リチャードボナ、忘れられません。
照明は諦めて、ワーキングホリデーに行こうと思い退職しました。- 2008/03/30
赤坂サファリアフリカンレストランバーにお客さんとして行く
箱根の旅館の住み込みで配膳の仕事をしながら、ワーキングホリデーの資金を貯めていました。
そこで、知り合った仲間が「どうしてもエチオピアのインジェラが食べたい」と言うのでいいよとついていきました。
その人が言うには、一番古いキリスト教がある国で、エンジェルたちも食べたごはんだと言うのです。
えーーー!もし、食べられなかったらどうしよーーー!とだいぶドキドキしていました。
で、ドキドキしながら赤坂に行き、雑居ビルのあやしい扉を開け、ドキドキしながら席に着き、 お料理の説明を聞き、そして、シェフからインジェラを食べさせてもらったところ、「ウマイ!」うまい、これなら大丈夫と思い、バクバク食べました。
お話も楽しいし、おもてなしもとても良いし。こんなお店が広がったらいいなぁと思いました。
帰りに、お店どうですか?と聞いたら、お客さんがあんまり来ないとのことで、「じゃあ、手伝います!」と言ったところから、始まりました。